気さくなあの娘、目をワイズシャット

280文字くらいをめどにつぶやきではなく、文章を書いていきたいと思う。

あおもり県庁なうSPおでかけ版「成田亨の世界」を見る

青森県立美術館はこの前読了した「観光アート」でも紹介されていた美術館。ウルトラマンのデザイン的な生みの親、成田亨作品も常設であるとは聞いていたがUstreamで紹介が流れるとヒマナイヌさんから聞き、録画分を見る。


Video streaming by Ustream

終始「知られざる芸術家」トーンで繰り出されるのは致し方ないことなのかもしれないが、初歩的な知識を軸にしてUstream放送が行われる。特撮マニアにしてみれば既に知っている情報も多いのは事実だし、当時のオンタイムの状況などを語ることができるゲストもまた、今後は少なくなっていくことは当然でもあり、そうしたメンバーで放送されるというのも今後は増えるのかもしれない。「俺はマニアほどには知らないから」で口を閉じているとあれよあれよと語るものはいなくなってしまうのではないかと最近考えている。回顧ではなく、今触れる成田亨の世界というアプローチは今後も展開をお願いしたい。

一方で、一時間枠をとっていただいたのにもかかわらず、その原点とも言えるべき部分についての話がほぼなかった。せっかく故郷である青森で制作されているのだから成田亨と青森という風土はもっとアプローチとして出てきてもよいのではないか。これは特撮マニアといえども疼く視点と思う。テレビ特撮「ウルトラシリーズ」はもちろん個人作品ではなく、組織作品である。故に脚本で多く関わったであろう沖縄県出身スタッフたちと、さて青森の成田亨氏はどう渡り合ったのか。脚本の金城さんはチブル星人(沖縄での頭の意味)を登場させたときなど、その言葉を聞いてどう感じたのかなどなど。次回、予定があるのであればお願いしたいところだ。

さて、こうして放送を見ていて、2013年現在の作品ビジュアルというものにやはり目が向いてしまう。あの頃、もちろん名を成した、とは言い難いが芸術家を志す人材ががっぷり四つ、出てきたばかりのメディアと前人未到のたたかいを挑む。それを味わうことをテレビの前に座ることで享受できた時代、世界。対して、ほぼコミックが原作というていの現在の創作物のなか、「悪しきもの」(決して悪いもの、というわけではないのだが)の表現力というのはどうか。いずれも人のカタチに引っ張られることが主人公との人格的なやりとりをはかる上で義務付けられているのではないかと思える。なぜ、ここには「前提を覆すような」造形のものは登場しにくくなっているのか。

これは、作家サイドの問題だけではなく、コミック編集者にも大きな問題があるのではないかと仮説を立てている。現在のコミックもまた、ひとりの作家の作家性だけで作成されるというのは難しい状況下にある。「ものづくり」の現場の現在の世代は「編集され」提供される意匠の世界の時代から、「安価に似たようなものは用意できる」という判断の時代に突入へ。うんうんいいおとなが唸ってひねり出した造形のない時代を多感な時期に過ごすというのはボディーブローのように審美眼に影響しているのではないだろうか。ふと、そんなことを考えた。

成田亨画集―ウルトラ怪獣デザイン編

成田亨画集―ウルトラ怪獣デザイン編

あ、放映中絶版で、と紹介された画集はもちろん自宅にあるのだけれどもとんでもない値段つけられているのな。